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守・破・離

6月24

5時起床、梅雨空。パソコンを立ち上げて、天気図と予報、平塚沖波浪データチェック。低気圧接近のせいで南の風が東にシフトしているよう。通過が午後でその後が一番よさそうですが、どうしようか、と思案。

で結局夕方入ったんですが、思ったほど上がらず残念。16時頃に一瞬だけ胸くらいに上がったんですが、潮が上げたせいか乗れなくなりました。

about 太気拳

昨日の稽古ではつくづく教えるって言う事の難しさを痛感。教えるって言うけど、自分は一体何を教えられるんだろう。

よく守・破・離と言う事を芸事で言う。もともとは禅の言葉で、能の世阿弥が言ったそうだけど、太気拳ではそれはどういう事になるのか。

物事を習うにはなんでも最初に形から入る。形がなくては始まらないからだ。でも形は形を学ぶ為にあるんじゃあない。形を通じて形の中にあるもの(つまり形を借りて別のもの)を見つけるわけだ。

太気拳では立禅を組む。何時も同じ公園で禅を組んでいると散歩の人と顔見知りになる。稽古の合間に何をしてるんですか、と聞かれる。答えようがないんだけど、まあ、良い立ち方を探してるんです、と答える。

別に煙に巻いてるわけじゃなくて、本当にそうだからだ。

立ってみると立ち方を知らなかった事に気がつく。いい姿勢ってなんだ、って事に眼が行く。これが立禅という形を通じて、形とは別のもの(つまり自分と言う自然)と向かい合っていくわけだ。そうすると、自分がこうだって思ってることが、ほとんどそうじゃないって言う事に気がつく。良い姿勢だとか言われてる事が結構不自然でいい加減だと言う事を自分の身体が教えてくれる。

自分と言う自然のあり方が、社会的な常識や思い込み、学校で習った良いとされる事とは別のところにあるのが判ってくる。だけどこれは形じゃない。外から見えてくる形とはちょっと違うわけだ。だから教えられない、見つけるしかない。

教える立場としては、自分との向かい合い方を教えられるだけで、そこで何を見出しか、は教えられない。言葉なんかで教えられるのは本当に小指の先程度しかない。

それでも何とか伝えようとするから、しんどい。

形を通じて、自分と言う自然と向かい合って、何時か形を取り去っても自分と言う自然が立ち現れる。それが形が不要になった時。

それが守から破への転調の時なんだろうな。

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